推し

 アイドルを『推し』と呼ぶのに伴って、それらを応援する行為を『推し事』と呼ぶようになった。
熱狂的な支持者を指す言葉であった『おっかけ』はここ数年で死語になりつつある。スリーピースとかアベックみたいに。
 
 かつてはアイドルとファンの間には幾重もの壁があって、ファンはその壁を通してアイドルを見る。周知されている事実と知られざる秘密。事実に熱狂して、秘密をミステリアスな魅力として受け止めていた。
 いまは壁が極端に薄い。SNSライブストリーミングの活発化でアイドルとファンの距離は急速に縮まった。声をかければ声が返ってくる。認知されようと両手を振れば顔と名前を覚えてもらえる。すごい時代だぜ。
 
 アイドルと一般人を隔てる壁は薄い。二十四時間発信される言葉と、台本のないリアルタイム映像はアイドルの神秘性を損なわせた。神、という手の届かない存在ではなくなったが、自分たちと同じ人間なのだという意識が生まれた気がする。
 現代のアイドルは四角い枠に収まるだけの存在じゃなくなった。なんせ僕たちと同じように燃えるし、冷える。ケンタッキーは美味い。
 SNSやブログ、ニュースサイトで取り上げられるアイドルの不祥事を『炎上』と呼ぶのは割と最近だ。以前は『祭り』だった。誹謗中傷の火の粉が飛び交うインターネットを表現するにはこれほど的確な言葉はないけど、炎上を楽しむ人間には『祭り』のほうが正確のような気がする。
 
 推しが炎上したときどうすればいいのか、ということをここ数日間考えている。
 ありがたいことに自分がよく拝見する人たちは炎上したことがなくてゆるゆると穏やかに活動をしている。ただいつ火柱が立つのかはわからない。防災意識は少しでもあったほうがいい。なるべく中立的な立場から、事を見極め擁護するのか、批難するかを決めよう。そうは思うけど、人は頭で考えたことをそのまま言動に移せるほど利口じゃない。多分思い入れの強さから擁護に傾きそう。そもそも、よく知っている人間を批難することは結構難しい。全肯定をしてしまう、ということではなくて、その人となりを知ると、仕方ない、しょうがない、甘やかす部分が増えていく。彼/彼女がこうするのもやむを得ないと判断する材料は透き通るほど薄い壁を通して得られる。
 
 モニター越しの外面しか知らない存在を友人のように感じるのはなぜだろう。
 推しは推しであるのだから、友人などと思うのは間違いだ。住んでいる世界が違うのだから。彼ら彼女らは商品なのだから、仕事なのだから。
 アンビバレンスな考えは常にある。否定するよりも受け入れて、時折ふれて苦い顔をする。
 
 特別愛おしいとは思わない。大きくて途方もない感情も持ち合わせていない。ただ彼ら彼女らが健全で、不和や混乱とは無縁であってほしいと願う。