春春春

 自分は北海道に住んでいて、嫌がらせのごとく雪がどっかんどっかん降る地域に住んでいる。春が近づいてくる気配は感じるが足取りは緩やかだ。

 外を歩けば積雪3メートルの天然のガードレールが道路と歩道を隔てている。道路の表面は白くてつるつるしてる。つるつるに凍った地面は黒のアスファルトが透けていて灰色だ。横断歩道に残るギザギザの轍は人の靴跡も混じってグロテクスな形になっている。

 顔を上げて建物の平らな屋根を見てやると、のったりとした雪の塊が積もっている。掛け布団のようにも、ホイップクリームにも、乾いた寿司ネタのようにも見える。モーターの起動音に耳をかたむけると除雪機が動き回っていて、宙になだらかな坂を作る。

うつむけばレモン色の雪がちらほらある。辺りには重たそうな長靴の足跡と可愛らしい肉球が続いている。凍結した地面の上には滑り止め防止砂が撒かれていて、ネズミの糞と言うか黒ごまと言うか迷う。どちらにせよ、それらを踏みつけるのはあまり良い気がしない。

 他の季節に比べると冬は静かだ。歩くたび、踏む雪はザクザクガサガサと鳴る癖に、それ以外は幕を下ろしたようにおとなしい。冷たい結晶を前にして遠慮がちになる。

 葉っぱと葉っぱがぶつかる波音。交尾を求める昆虫の合唱。遠くから響く汗臭い少年たちの声。駆けるランドセルから聞こえる教科書の鼓動。季節の変わり目はぜんぶが懐かしく感じる。

 同じ夏は二度とこないと言うけれど冬は同じだ。いつも同じ服を着て何食わぬ顔で立っている。
 重い腰を上げた春がもうすぐやってくる。はやくこい。

推し

 アイドルを『推し』と呼ぶのに伴って、それらを応援する行為を『推し事』と呼ぶようになった。
熱狂的な支持者を指す言葉であった『おっかけ』はここ数年で死語になりつつある。スリーピースとかアベックみたいに。
 
 かつてはアイドルとファンの間には幾重もの壁があって、ファンはその壁を通してアイドルを見る。周知されている事実と知られざる秘密。事実に熱狂して、秘密をミステリアスな魅力として受け止めていた。
 いまは壁が極端に薄い。SNSライブストリーミングの活発化でアイドルとファンの距離は急速に縮まった。声をかければ声が返ってくる。認知されようと両手を振れば顔と名前を覚えてもらえる。すごい時代だぜ。
 
 アイドルと一般人を隔てる壁は薄い。二十四時間発信される言葉と、台本のないリアルタイム映像はアイドルの神秘性を損なわせた。神、という手の届かない存在ではなくなったが、自分たちと同じ人間なのだという意識が生まれた気がする。
 現代のアイドルは四角い枠に収まるだけの存在じゃなくなった。なんせ僕たちと同じように燃えるし、冷える。ケンタッキーは美味い。
 SNSやブログ、ニュースサイトで取り上げられるアイドルの不祥事を『炎上』と呼ぶのは割と最近だ。以前は『祭り』だった。誹謗中傷の火の粉が飛び交うインターネットを表現するにはこれほど的確な言葉はないけど、炎上を楽しむ人間には『祭り』のほうが正確のような気がする。
 
 推しが炎上したときどうすればいいのか、ということをここ数日間考えている。
 ありがたいことに自分がよく拝見する人たちは炎上したことがなくてゆるゆると穏やかに活動をしている。ただいつ火柱が立つのかはわからない。防災意識は少しでもあったほうがいい。なるべく中立的な立場から、事を見極め擁護するのか、批難するかを決めよう。そうは思うけど、人は頭で考えたことをそのまま言動に移せるほど利口じゃない。多分思い入れの強さから擁護に傾きそう。そもそも、よく知っている人間を批難することは結構難しい。全肯定をしてしまう、ということではなくて、その人となりを知ると、仕方ない、しょうがない、甘やかす部分が増えていく。彼/彼女がこうするのもやむを得ないと判断する材料は透き通るほど薄い壁を通して得られる。
 
 モニター越しの外面しか知らない存在を友人のように感じるのはなぜだろう。
 推しは推しであるのだから、友人などと思うのは間違いだ。住んでいる世界が違うのだから。彼ら彼女らは商品なのだから、仕事なのだから。
 アンビバレンスな考えは常にある。否定するよりも受け入れて、時折ふれて苦い顔をする。
 
 特別愛おしいとは思わない。大きくて途方もない感情も持ち合わせていない。ただ彼ら彼女らが健全で、不和や混乱とは無縁であってほしいと願う。

激務・発熱・VALORANT・ワルプルギスの廻転

あっという間に5月でワロタ。いや笑えねーわ。

怒涛の修正と追い込みで3月が丸々ふっ飛んで、その勢いを引きずったまま4月に。
安定してきたか?と思ったら散発的に修正依頼がきて徹夜、というのを繰り返していたらいつの間にか5月になっていた。

務についてはもはや言うことはないです。今年も底辺を彷徨うことになりそう。生きていることに感謝。

発熱は文字通り発熱がありました。4月下旬から今日まで37℃を超える熱があって、巷で大人気の”あれ”なんじゃないかと縮みあがっていました。病院への電話相談では自宅待機を推奨されました。症状が発熱だけで、咳・倦怠感・鼻水・関節痛……エとセとラが無く、一時的なものかもしれないということでした。38度近い熱と咳があったら完全にアウトだったらしい。いま思えば激務で免疫力が下がったことで風邪をひき始めていたのかもしれない。発熱は2週間ぐらい続いたが真相は闇の中……

VALORANTは大人気無料FPSゲーム。APEX LEGENDSみたいなバンバン撃つ系のゲーム。
ここ最近の対人ゲームは大体これで暇さえあればやってる。数ヶ月前まではPCでしか展開されてない敷居が高いゲームみたいに言われてたけど、ストリーマーがこぞってプレイし始めたり、世界大会予選が毎週末サイトで配信されていたりで盛り上がっている。
自分は結構やり込んでいて、ランクも固定メンバーを組んだり、そのメンバーと研究とかしたり、身内向けのコーチングやったり色々やってます。APEXの方が……と煙たがられていた時期を考えると、新規が増えて界隈が盛り上がってるな~~というのを肌で感じることができて嬉しいね。

界隈が盛り上がっているで思い出したけど

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉」公式サイト

が来ましたね。いや、長かった。
MADOGATARI展での映像、悠木碧氏や虚淵玄氏のインタビューで散々匂わせがあってからのこれ、本当に長かった。
なのはおじさんを馬鹿にできないところまで来て、マギレコやファンアート、既存解釈をこね続けるだけかと思っていたので誇張抜きに涙が出ました。
叛逆の物語から8年。ありがとうございます。
これからも追い続けることができるコンテンツであってほしい、それが私の願いです。

その祈りのために魂を賭けられるかい?

最近の面白かったやつ

アニメ・ドラマ

映画

漫画

小説

漫画と小説は現在進行で読んでるのもある。余裕ができたら感想みたいのを書きたいね。

本や映画を繰り返し読んだり観たりする

同じ作品をリピートする癖がある。映画は気に入ったものだと20回かそれ以上観るし、漫画は好きな話が載っている巻を毎日読んだりする。音楽は最初は好きなバンドのプレイリストを再生するけど、途中から一曲リピートにして午前中が潰れる。

5,6年前ぐらいはこの「繰り返し何度も同じ作品を観る/聴く/読む」みたいなのは、単純作業によるストレス解消と似たようなもので、同じものに触れ続けることで安心感を得ていて結果的にストレス解消へ繋がっている、みたいなもんだと思っていた。だけど「よし、チェンソーマン読み直すか」と意識してリピートしているのでストレスとかなんとか全く関係なく、単にリピートしたいだけなのではないかと気づいた。

小さい頃から、ビデオテープが擦り切れるまで何度もアニメや映画を観ていたし、漫画もカバーが破けるまで読み込んでいた。いつも同じ漫画を読んでいたので親に飽きないのかと聞かれたこともある。漫画小説、本の類は教科書みたいな読み方をしてるっぽいようにも思える。

リピートが終わる瞬間は他に好きな/良いものを見つけた時で、少し前はヨルシカの「言って」をリピート再生していたけど、今はずとまよの「勘ぐれい」を一日中聴いている。「言って」より「勘ぐれい」のほうが曲として良い、というわけじゃなくて今これが好きだから聴いている。別のものへ乗り移るというよりは、何度も立ち寄る感覚に近い。

なんでこんな事を書き出したのかというと、いま毎日1巻から10巻まで「チェンソーマン」を繰り返し読んでいて、いよいよ自分の正常さに自信がなくなってきたから。

ジョジョの思い出

ジョジョ」というと作中で使われる台詞の数々がインターネットスラングとして頻繁に使われたり、漫画のワンシーンが大喜利に使用されていたり、知ってはいるけど読んだことはない漫画の1つになりがち。

高校生以前の自分も「ジョジョ」という存在を知ったのはニコニコ動画ジョジョ替え歌とかMUGEN、あと叔父さんが持っていたファミコンジャンプにいたやつ(承太郎)ぐらいの知識しかなかった。

ジョジョの奇妙な冒険」を読み始めたのは高校生になってから。とりあえず1巻だけ買うか、と。真面目そうな男といかにもな男と犬が表紙の単行本1巻を買った。とんでもなく時代を感じる絵柄、90年代どころか80年代の漫画なのだからビビってしまう。かの有名な「おれたちにはできないことを~~」のくだりがいきなり収録されてるのも第1巻、「君が泣くまで~~~」もある。怒涛の勢いでぶちかまされる荒木節は自分の中で高くなっていた面白ハードルを軽々と飛び越えていく。読み終わって、次の巻を買うことも既に決定事項になった。明日にでも本屋に行こうとしたけど、僕の何十倍も漫画好きな母親のほうが速かった。ジョジョを読んでいることを知るやいなや、僕が学校帰りに2巻を買って家に戻ると、既に部屋の机には「ジョジョの奇妙な冒険」文庫本1~7巻(ファントムブラッドから戦闘潮流)があって、キッチンでしたり顔してヤニを吸ってる母親に僕は頭を下げることになった。俺にはできないことを平然とやってのける。

ジョジョは長いからね、文庫本でまず短いのを揃えたほうがいいよ」という母の助言を元に4-5-6-3部のの順番に文庫本を揃えた。6部まで揃えるのに1年もかからなかったと思う。

すっかりジョジョ漬けになってしまった僕は、授業らしい授業もやらなくなって自習と書かれた黒板を目にすることが多くなった学校にジョジョの奇妙な冒険を持ち込んでいた。大人しくするなら何をしてもいいというのは非常にありがたく、お気に入りの第5部を何度も読み返していた。

「なに読んでんの」ある時、前の席にやつに声をかけられた。

「読む?」「絵柄がキモいやつか」「いや内容は面白いから」みたいなやり取りをしたのを覚えてる。
「暇だし読むわ」と言った前の席の友人は、放課後になって「続きを読ませてくれ」と僕から続きの巻を借りていった。

暇を持て余した人間は多くて、みんなゲームや漫画を持ち込んでどうにかして時間を潰していた。ゲームはモンハンとかゴッドイーター、漫画はいろんなのをグループ内で回し読みしていた。「鋼の錬金術師」とか「とある魔術の禁書目録」なぜかガンガン系の漫画が流行っていた。歴史の先生がトロ(シンナー)をやるより健全だ、と言っていて笑った。

卒業までそうやって漫画とか小説を貸し借り、回し読みして過ごしていた。ジョジョは結構な人間の間で読まれていたけど、全員が最初に「絵柄が嫌だ」と言って、しばらくすると「続き読みたいから」と次巻を催促してくるのは愉快だった。第1巻から読んでるとマイルドな北斗の拳みたいな絵柄だし、その辺りも良かったのかもしれない。

大学に入ると、アニメ化の影響もありジョジョに理解のある人が増えた。今までインターネットやパロディネタなんかでしか知らなかった人が、原作に触れて元ネタ理解するまでになった。単純に嬉しいことで、ネット掲示板のスタンド強さスレとかで管を巻いていた住人たちが活気づいたような印象もある。好きな部と理由を書いてけスレは書き込みがすぐに1000超えるようになったりして、アニメ化の強さを改めて思い知ることになる。

 

アニメ『岸辺露伴は動かない』がNetflixで2月18日全世界独占配信。予告映像も公開 - ファミ通.com

岸辺露伴は動かない」は第4部に登場した漫画家のスタンド使い、作中屈指の人気キャラで作者のお気に入り。彼を主役とした短編マンガが幾つか描かれて、アニメ化、実写ドラマ化も果たした。人気キャラを主役にした描き下ろしエピソードということもあり、どれも渾身の出来になっている。

先月ぐらいにやった高橋一生主演の実写ドラマはクオリティが高くて、スタッフや制作陣の気合の入りっぷりがよくわかる。特に岸辺露伴役の高橋一生が本当に素晴らしい。自分の中の高橋一生は「ベランダで観葉植物を育てている。なんかふわふわした音楽を聴きながら、将棋を指してる」だったので、よくもまぁ性悪変人漫画家に寄せたなと、よく磨いたなという気持ちなわけです。

なんでいきなりジョジョの話をたらたら書いてるのかというと、Netflixで「岸辺露伴は動かない」の配信が始まって嬉しい気持ちになったから。

マネーボール

弱小野球チームが統計学的なアプローチで球団を強くしようという話。主演はブラッド・ピット。「トゥルー・ストーリー」のジョナ・ヒルもいる。

ブラッド・ピット演じる主人公ビリー・ビーンはとにかく真っ直ぐな人物だ。古参のスカウトマンや監督、コーチが見てみぬふりする問題に腕を振り上げ、主張する。このチームはカスだ、と。ゼネラルマネージャーという高い立場から言葉を選ばずに言ってのけるビリーに周囲は冷たい視線と辛辣な言葉を吐き捨てる。

アンタは間違ってる、このチームは終わるぞ、統計学なんかよりも伝統を重んじろ。そんな古臭い伝統が役に立たないことはビリーも映画を観ている人間にもわかっている。だけど人は、それが因習だとは理解していても簡単には捨て去ることができない。不確かな存在を信じる人間は少ないけど、曖昧な意思の元で成立するルールに人は縛られる。

ビリーは厳しい制約(資金難や人手不足)の中で闘っていた。統計学を用いたチーム作りは未知数の手法とされ、球団内部は勿論のこと、外部からも批判の声を浴びることになる。劇中、成績の振るわないビリーの球団を猛烈に批判するラジオパーソナリティの台詞が聞こえてくる。一貫して監督や選手に責任はなく、GMこそが敗因の根源だとまくし立てるパーソナリティ。

ビリーの闘いは孤独だった。誰にも頼らず、誰にも認められない闘いをする。僕らにだって孤独な闘いはある。勉強や絵を描くこと、身体を鍛えることだって。SNSが発展した今なら簡単に誰かに頼って認めてもらうことができる。出来上がった絵をネットにアップする。鍛え上げた身体を公開する。チヤホヤしたメッセといいねの数で人は孤独を少しだけ受け入れることができる。ビリーの闘いにSNSはない。いいねも称賛のリプライもない。

「パパはクビになるの」

不安を誰とも共有できないビリーに娘の無垢な台詞が刺さる。娘は作品におけるビリーのオアシス的な役割を持っているわけじゃない。至極冷静に、純粋な疑問をぶつける。娘の疑問は球団のコーチやスカウトマンが言ってることと実は同じなのだけど、他の誰よりも娘の言葉は鋭くビリーに突き刺さる。

失敗すれば全てが終わる。自分と球団、それに関わる人全員に失敗の泥がかかる。味方はいない。だけど明確な敵も存在しない。ただ、早く実を結んでくれと願うしかない。

映画の終盤でようやくビリーは報われる。常識を無視した新しい理論は正しかったと証明し、リーグ優勝は逃したものの、チームに光を当てることに成功する。

だけど暗いトンネルを抜けたのは一瞬で、ビリーは現在のチームのため、ライバルチームからの多額のオファーを断り、いまいる球団に残って闘うことを選択する。
暗闇を抜けた景色に見惚れることもなく、次のトンネルに入り込む。長い、とても長くて、いつ抜けられるのかわからないトンネルへ。誰にだって闘いはある。でも多くが誰かと協力したり、決して1人じゃない。ビリーは1人で闘うことを選択した。
映画では語られずとも孤独な闘いは続く。それがわかったとき、僕はどうしようもなく切なくなった。